ロイヤルオーク オフショア 25721ST.OO.1000ST.01
ロイヤルオーク オフショア誕生20年目の2013年。ジェンタのデザインを受け継いで、あらたなオフショアを生み出した当時のオーデマ・ピゲ デザイナーエマニュエル・ゲイエのインタビューをピックアップ。“野獣”と言われた開発当初のオフショアについて語っている。

ロイヤルオーク・オフショアは、同社の歴史では、最近、と言える1993年にリリースされました。 エマニュエル・ゲイエ氏は、彼が生み出した「ビースト(野獣)」が誕生した背景について以下のように語ってくれました。

2012年、20年目でオフショアを祝うのは大げさだと考えたのか、オーデマ・ピゲは2012年に自社のアイコン的存在であるロイヤルオークの生誕40周年だけを祝い、ロイヤルオーク・オフショアについては、その25周年の生誕記念までお祝いはお預けとしました。

そういった中でも、オーデマ・ピゲが最新コレクションとしてSalon International de la Haute Horlogerie ― 2013年の国際高級時計見本市 ― で発表したのは、「非常にカリスマ的で雄々しい」(オーデマ・ピゲ社自身の言葉による)あらゆる技術を注がれたロイヤルオーク・オフショアでした。

ケースとベゼルにはセラミックを採用、更に最新のミニッツリピーター、永久カレンダーとスプリットセコンドクロノグラフを搭載した新しいロイヤルオーク・オフショア・クロノグラフであり、カタログの中で最も注目されました。

ロイヤルオークオフショアダイバー

このほかの新作、ロイヤルオーク・オフショア・ダイバーでは、ディープブラック・ハイテクセラミックスが採用され、スタンダードなケースのロイヤルオーク・オフショアは、ブルーダイヤルの永久カレンダークロノグラフ仕様として登場しました。

20年前の1993年、オーデマピゲは、ジュネーブのSalon International de la Haute Horlogerie ― 国際高級時計見本市 ― に展示するバーゼルワールドの1993年版ロイヤルオーク・オフショアを展示する準備を慎重に進めていました。
そのやり方は、1972年に同社がオリジナルのロイヤルオークを立ち上げた時とほとんど同じものでした。
オフショアの開発者たちは、時計業界と高級時計の愛好家たちが、この大きなサイズの時計にどういった反応をするのだろうか?という想いを大きくもっていました。

ビーストの創造者

その分厚い時計の意匠は、関係者の間で直ぐに「ビースト(野獣)」というあだ名が付けられましたが、そのドでかい42-ミリケースは、それに相応しいスタンダードサイズでした。
けれども、二十年前に確立された、その前身であるロイヤルオークと同じように、ロイヤルオーク・オフショアは、サイズという条件において新しく現代的な基準をもたらしました。ジュネーブをベースに活躍するエマニュエル・ゲイエ、45 歳は現在、時計や高級品に特化したデザイン局のオーナーですが、当時は、その意匠コンセプトの裏方に徹していました。彼は、当時ロイヤルオークのプレゼンテーションを行う理由となった嘆きと何度も中断されたプロセスについて語ってくれました。

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「私がオーデマ・ピゲで働き始めた時、私はジュニアデザイナーでした。当時は、1972年に退職したジェラルド・ジェンタ氏の後任となったジャクリーン・ディメールがその部門を統括していました」とギュエイト氏は語り始めます。
「私の両親は、いつかは私を英国の大学にやりたいと決めていました。そして私は英国に行く前にディメール夫人と出会い、いくばくかの資金を得るために私のデザインを彼女に売ったのです。とはいえ、そのデザインについて夫人はそれほど興味を持ってはいませんでしたが、英国から帰ったら会社で仕事ができるようにしてくれると言ってくれました。当時はわずか19歳でしたからね、ずいぶんと未熟だったのです。その後私は帰国して、1986年から働き始め、13年間をオーデマ・ピゲで働きました。私が退職したのは私がアート・ディレクターの時です」
ゲイエ氏の血統は彼がキャリアを積むことに役に立ちました。つまり、氏によれば、「私の父であるジーン・ピエールは有名な時計デザイナーであり、時計のジェットセットについての知識がありました。私の父こそが私がオーデマ・ピゲでキャリアを始めるドアを開けてくれたのです。父はピアジェに勤めていましたが、その最初のハリー・ウィンストンをデザインしただけでなく、パテック・フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタン、ロレックス、コンコルド、モバードのデザインも手掛けました」

ロイヤルオークに活気を与える

それでは、オリジナルのロイヤルオークのスピンオフを生み出すコンセントとは何だったのでしょうか?
「当時の私は22歳で、ステファン・ウルクハート氏(現オメガ社のCEO)がオーデマ・ピゲの舵をとっていました。彼は私に、若い人達のためのロイヤルオークとは何かを研究するように言いました。当時、1989年頃までは、新しいトレンドがありました。それは、女性が男性物の時計を着けるというものです。私自身はそのアイデアをあまり好きではありませんでしたが、大きめのサイズをした男性的な意匠の時計を作ることはできるなと考えました。ステファン氏は私のメンターでもありますが、私の提案を気に入ってくれました」とはいえ、そのアイデアを確たるものとして表現することは簡単なことではなかったのです。
「実際にそのやり方が認められるのに4年かかりました。というのも、半年ごとに一度の頻度で、必ずその計画を止めるように言われたからです。計画を止めるように言った人たちは、その時計は大きすぎる、重すぎる、商業ベースには向かないといいました。彼らはそのデザインを受け入れることが出来なかったし、それが作るに値するものだとは思えなかったのです。私以外はただの一人も受け入れられなかったのです。私には確信がありましたので、内緒にしたままでそのコンセプトの開発を続けていました。そしてついに、1992年、私はそのプロジェクトを発表しました。ステファン氏は言いました。『分かった。やりたまえ。それで満足するのなら』と。

その年にオフショアを世に出すことを妨げる幾つかの制約がありました。「それは1992年のロイヤルオークの誕生20周年記念を祝うものとして市場に出るはずでしたが、 革新的要素の部分で解決しなければならない項目がありました。それは、一番上の龍頭とシリコン内のプッシュピース、そしてベゼルとケースの間のジョイント部分です。
当時はロイヤルオークの売り上げが少し下がっていたので、既存のロイヤルオークに若者らしい見栄えを与えながらも、よく似たデザインを維持することで、新しい顧客層を取り込むものである必要があったのです。ステファン氏はマーケティングについてあらゆることを私に教えてくれました。つまり、最初から私のプロジェクトに対する信頼を示してくれたのです。とはいえ、他の人はみんな、私たちは頭がおかしいと思っていたのです」

25721ST.OO.1000ST.01ケース裏

狂気の聖像破壊者として

「ビースト(野獣)」が生まれる背景には何か特別なインスピレーションがあったのでしょうか? 「特にはありません。ジェラルド・ジェンタが生んだオリジナルのロイヤルオークは、私の創造を掻き立てる唯一の物でしたし、私の目標とするものでしたから、それを真の意味で変えてしまうのではなく、変えるということが目標でした」そのケースはモジュール式のキャリバーには大きすぎたので、ムーブメントを 耐磁性の内側ケースの中に取り付けましたが、その試みは製品の価値ある売りとなりました。 さらに、高級時計業界ではよくあることですが、相応しい名前が伝説的な地位を得るものになれるかどうかを左右するという問題です。オフショアという商標は、お金のかかるパワーボートレースや特別な海の冒険を人々に連想させ、理想のモデルとなるものに相応しいものです。「オフショアの名前を考えたのはステファン氏ですが、最初に作られた100個の裏面にはオフショアの名前を刻印することを躊躇しました。つまり、彼らはロイヤルオークの名前に傷をつけることを恐れたのです。とはいえ、今では反対派であった人たちは考えを変えました」
最初の刻印のない100個は、今では希少価値のあるものとなっています。ちなみに、ゲイエ氏は、その100個の中の内の39番の刻印があるものを所有しているそうです。

オフショアが遂にバーゼルの見本市で紹介された時、多くの純粋主義者たちは、それを時計に対する冒とくであると言いました。そしてその中には、そのことをよく知っているはずの人であった立場にあり、その人自身も20年前に聖像破壊主義者であるとして糾弾された経験を持つ人もいました。「ジェラルド・ジェンタ氏は展示会場のブースに乱入してきて、HISロイヤルオークは完全に破壊されたと叫びました」当時を振り返り、ゲイエ氏はそう語ります。それ以外にも、時計業界では「異質」の意匠を」生み出すことで良く知られていた人たちも、一切、褒めることはなかったと言います。
「思い出すのは、バーゼルの高級時計見本市でロイヤルオーク・オフショアが紹介された後で、当時はジャガールクルト社のプロダクト・チーフであった、友人のマキシミリアン・ビュッセルとランチを共にした時のことです。彼はその時私に、『君は完全に狂っているよ。あんな化け物は絶対に売れないぞ』といったことです。「まったく。時代はすっかり変わってしまいましたね」

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「怪物」に色を与える

最初のロイヤルオーク・オフショアはオリジナルのロイヤルオークの配色と同じコンセプトでした。つまり、ブルーの文字盤に、大きめのタペストリー・ギョーシェ彫り模様です。それ以外の色はその後年に登場します。

「1997のオリジナルのロイヤルオーク生誕25周年に、バーゼルワールドの高級時計見本市のブースでカラフルなオフショアを展示しました。バイオレット、ブラウン、アップルイエロー、オレンジ、ターコイズと言った色です。それは面白半分の試みでしたが、会場にいた人々から好評を得まして、沢山の注文を頂きました」その他の人気色もその後に登場しました。 「同じ年に、ロイヤルオーク・オフショア・エンドオブデイズというモデルをアーノルド・シュワルツェネッガーの為に創りました。そして、そのモデルが高級時計業界の新しい方向性を開いてくれたのです。つまり、黒い時計という存在です。

オフショアのラインはそれから急速に、オーデマ・ピゲにとっての理想的な市場実験の礎となり、革新的な素材を使ったものやウルトラ・スポーティの限定版として、それぞれのモデルのアンバサダーの名を刻印してリリースされました。
エマニュエル・ゲイエ氏は、1995年には楕円形文字盤のミリナリーを、さらにジュール・オーデマのラインを生み出しました。その後1999年にオーデマ・ピゲを辞し自身の会社であるEGスタジオを設立しました。
「退職後にオーデマ・ピゲは私のかつてのプロジェクトであったロイヤルオーク・オフショアを再度取り上げて、ラバーの ベゼルとストラップを備えたモデルを生み出しました」そして、それが彼の一番新しい遺産となりました。
最近は、オーデマ・ピゲとの交流が無くなっているとゲイエ氏は言います。 そしてそのことは彼が生んだロイヤルオーク・オフショアブランドのいくつかのモデルの採用を批判することでもあることを認めています。

とはいえ一方では、彼を喜ばせてくれることもあります。
「 オーデマ・ピゲのCEOであるフランソワ・アンリ・べナミアス氏に合うことが嬉しくてなりません。彼は趣味が良く、とても頭の良い人です。私がオーデマ・ピゲを退職した後、同社は絶対に彼らが催すイベントに私を招くことはありませんでした。でも、フランソワは、私を見出すでしょう」
確かに、私たちが氏に着目したように、べナミアス氏もきっとそうするでしょう!

オーデマ・ピゲは数少ない同族経営の時計製造会社で、その本社はスイスのジュール渓谷、ルブラッシュにあります。その時計産業の中心で同社は、高級時計メーカーとしての高い地位を1875年の設立当初から保っています。

information source:worldtempus.com

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